占術研究家マギー 伝説の七星占
七星占とは?
古代中国の伝説から生まれた七星占
 七星占(しっしょうせん)は、飛鳥時代に古代中国から日本に伝わり、平安時代に大ブレイクした占い。人間の運命を北斗七星の7つの星に当てはめて占います。

 藤原道長の祖父・藤原諸輔(ふじわらのもろすけ)が記した『九条殿遺誡(くじょうどのいかい。くじょうどのゆいかい、ともいう)』には、「起床したら、まず自分の属星(ぞくしょう)を7回唱えよ」とあります。属星とは、七星占で使用する「自分の生まれ星」のこと。別名を本命星(ほんみょうしょう)といいます。真っ先に本命星を口にするのは、自分の行いの正しさを北斗七星に表明することが、当時盛んに行われていたためです。宮中では本命祭が年6回行われていたと古書に記されています。本命星を拝すれば、罪業(ざいごう)が清められ、願いがかない、富貴が得られるとされ、991年元旦、宇多天皇が北に向かって自分の本命星を7回唱えてから東西南北の神などに拝し、「四方拝(しほうはい)」と名づけられました。現在も天皇の大切な元旦の儀式とされています。

 七星占がもてはやされた背景には、古代中国の北斗七星伝説があげられます。19歳までしか命がないことを偶然知ってしまった少年が、桑の木の下で碁を打つふたりの老人に酒を振る舞って長寿を得たという伝説で、ふたりの老人とは北斗七星神と南斗六星神を指します。この伝説がモチーフになり、北斗七星は善悪をつかさどり、善行をした人には富貴長命を約束し、願いをかなえるとあがめられるようになり、やがて人間の運命をも定める星とされました。人は、生まれた瞬間に天にまたたく7つの星のどれかに属して運命を授けられるとし、7つの星それぞれに意味がつけられたのが、七星占の始まりです。

 平安時代、この占いを自在に操ったのが安倍晴明(あべのせいめい)です。彼は陰陽道(おんみょうどう)を駆使して京の都を救っていた実在の人物。百済から伝播(でんぱ)した陰陽道を日本式に改めて占いのスタイルを確立した、占いの祖として知られています。彼の生年月日は不明ですが、七星占で巨門星(こもんしょう)生まれだったという記述が残されています。巨門星生まれは、物腰が穏やかな博学タイプ。感受性が鋭く、気力にも恵まれ、肩書に目もくれない謙虚さをもちます。実際、晴明は名実ともにずば抜けていたにもかかわらず、陰陽寮のトップである陰陽頭(おんみょうのかみ)のポストを辞退して世のため人のために尽力したのですから、巨門星の特徴がよく表れているといえるでしょう。

 七星占には多くの手法が存在するため、961年に、晴明の兄弟子の加茂保憲(かものやすのり)と宿曜師(すくようじ)の法蔵が、村上天皇の本命星などをめぐり、生まれた日と生まれ月のどちらの本命星を重視するか論争を起こすなど、平安当時から手法の違いによる論争がしばしば見られたようです。

◆北斗七星を構成する星
北斗七星を構成する星
 流派の違いは奥義となり、現代に受け継がれています。このサイトで使用する七星占は、本命星のほかに三分損益法(さんぶそんえきほう)を用いて元神星(げんしんしょう)を出す本格的手法によるもの。三分損益法は、古代、帝の交代によって制度改正を行う際に使われた計算法です。竹の音色を用いて計算されていたため、今では古代音律法として知られていますが、古代、国家にとって制度とともに占いも重要な国の柱だったといえます。

 また、「七星占」で用いる星は政治をつかさどるとされ、「七政(しちせい)」とも呼ばれます。「宮(みや)」とは七政を治める天子のいる場所のことで、治める役割にしたがって「宮」は7つに分かれることから「七星宮(しっしょうのみや)」とも呼ばれ、それぞれの意味に応じて力を発揮します。
 
◆本命星と元神星のキーワード
本命星と元神星のキーワード

◆七星宮(しっしょうのみや)のキーワード
七星宮(しっしょうのみや) 七星宮(しっしょうのみや)のキーワード
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